世界194カ国の国旗を掲げながらその国々の平和を祈る祭典

ハギト・ラーナン女史講演内容

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2015年9月10日、広島大学にて                                            (  ) は訳者による注です

皆さまに「今日は」(シャローム・サラーム)とご挨拶申し上げます。

   (シャローム(Shalom)はヘブライ語で平和、サラーム(Salam)はアラビア語で平和の意味。ヘブライ語もアラビア語もセム語族に属し、似ている単語がある。)

現在のイスラエル・パレスチナ問題についての私の見解をお伝えする時間を取って下さったことに、心より感謝申し上げます。ただし、私は国とか組織の意見を代表するのではなく、私個人の見解を申し上げることができるだけです。

私はイスラエルから参りましたが、イスラエルは中東というカオスの震源地のまっただ中に位置しています。私は今日ここに、深い感謝と畏敬の念をもってここに立っております。

私は1950年に生まれましたが、私の人生の物語は実際にはそれ以前から始まっています。1923年に私の祖父が家族の者たちに、長年住んでいた故郷であるポーランドを離れ、イスラエルに行こうと懇願したのです。

祖父は、ヨーロッパで何か悪いことが起ころうとしている、という感じを持ちました。私の祖母の姉妹の一人は、そんなことは信じませんでした。そこで、彼女はヨーロッパに残る決断をしたのです。彼女はユダヤ人虐殺、いわゆるホロコーストを生き延びることはできませんでした。私は祖母の姉妹には一度も会ったことはありません。

 (19世紀の後半からヨーロッパでは反ユダヤ主義が高まった。これへの応答として、ユダヤ人の間ではパレスチナにユダヤ人国家を創ろうとするシオニズム運動が起こった。ドイツやオーストリアでは1918年の第一次世界大戦の敗戦後、反ユダヤ主義がさらに激化し、1933年にナチスが政権の座につき、ユダヤ人迫害が始まった。)

その次の重要な出来事は、1946年に私の両親が、「エツェル」(Etzel)という地下組織運動に加わったことです。エツェルは「イルグン」(Irgun)という名でも知られています。この組織の本来の目的は、その当時パレスチナを統治していたイギリスと戦い、イスラエルの独立を目指すことでした。

 (「エツェル」は「ユダヤ民族軍事機構」の略称で、シオニズム運動の中の武闘派。イギリスと戦い、またアラブ系住民を虐殺してパレスチナから追放しようとした。「イルグン」は「組織」という意味。)

1947年に、私の父はエルサレム地区のイルグンの最高司令官に任命されました。イルグンはシオニズム運動の中の右翼の地下活動組織と見なされています。

私の父がイルグンの最高司令官を務めていた期間に、恐ろしい事件が起こったことを知っています。私は、なぜそのようなことをしたのか、しばしば疑問に思います。そういうことを含めて、私は父を心から愛していますし、その当時、彼が行なった行為を理解しています。今は亡き父の魂が平和の内にあることを祈るのみです。

ユダヤの風習では、バート・ミツヴァと呼ばれる成人式の儀式があります。

 (女の子は12歳でバート・ミツヴァ(Bat Mitzvah)、男の子は13歳でバール・ミツヴァ(Bar Mitzvah)という成人式を迎える。)

私がバート・ミツヴァを迎えた1962年には、エルサレムの旧市街は、まだヨルダン王国の統治下にありました。

父の私の成人式の贈りものは、私をエルサレムに連れて行ってくれたことです。父は私を抱き上げて、フェンスの向こう側、ヨルダン側に降ろして、私にこう命じました。「さあ、急いで走っていって、旧市街を取り囲んでいる外側の壁に触って、戻って来るんだ。それが、お前の勇気とイスラエルに対する忠誠心を示す成人式の儀式だ」と父は私に言ったのです。

この地域の周辺すべてにはヨルダンの狙撃手が立っていて、そこに行くことは禁じられていたのです。

イスラエル国に属する女性として、32歳になるまで私は6回の戦争を経験しました。平和な日々はほんの数えるほどしかありませんでした。これらの戦争の間に、私は大勢の友人を失いました。私自身、徴兵されて軍務につきました。兵役の一部はガザ地区で務めました。

 (イスラエルでは男女ともに徴兵義務がある。)

私に最も重大なインパクトを与えた出来事は、1982年6月に始まった第一次レバノン戦争でした。

 (イスラエルは、レバノンに拠点を置くPLO(パレスチナ解放機構)とそれを支持するシリアを攻撃するために、レバノンに侵攻した。)

戦争の第1週に、私の夫のハイムが、レバノンのベイルートの近くで、パレスチナ人に殺されました。ハイムとは「いのち」という意味で、彼はイスラエル国防軍の重要な大佐でした。

生死を分けたのはスピードの違いだけでした。パレスチナ人の射撃のほうが早かったのです。しかし、もし夫のほうが早ければ、彼はいまおそらくここに生きていたでしょう、しかしパレスチナ人のほうは死んでいたでしょう。

その当時、私は妊娠5ヶ月でした。夫の死後すぐにその子は流産してしまいました。その魂は私を離れて、「天のふるさと」に戻る旅路にある父親のサポートをする決断をしたのです。

このように述べてきましたすべてのことに関して、私には罪はありませんし、逆に他人を非難する気持ちもありません。私は犠牲者ではありません。そして、私たちのだれ一人として、何らかの犠牲者ではないと信じています。

それから数年たって私は、このような悲しみの状態のままにいつまでもとどまっていることは、決してよいことではない、という結論に至りました。私は何かをして前進しなければならないと感じました。

私に起こった出来事を私は決して忘れることはないでしょう。しかしそれは、私の人生をポジティブな方向に向かわせるための動機づけとするためであります。私の人生のいかなる瞬間においても、ほかの人々が、その人がかかえている心の障害を乗りこえて前進することを可能にしたいと、私は願っています。

次に私の使命、ミッションについてお話しいたします。

私の仕事はいかなる政治的方向とも関係ありません。私は一人の人間として、自分自身を救おうとしているほかの人々をサポートするために生きています。

私が見るところでは、中東には、パレスチナとイスラエルには、途方もない恐怖が渦巻いています。

パレスチナ人は、アラブ諸国に住むユダヤ人、つまり差別され迫害された人びとと見なすことができます。しかし、世界のだれ一人としてパレスチナ人またはユダヤ人のことを真剣に気にかけてはいないのです。

パレスチナ人とイスラエル人は一緒になって、互いに他をサポートする必要があるのだと私は理解しています。それは私たちにとって唯一の選択です。それを実行するためには、私たちは二つの社会の間の壁となっている恐怖を克服する必要があります。

それを行なうために、2000年10月まで私が行なった主なミッションは、イスラエル人とパレスチナ人の出会いの場をつくることでした。

私たちはパレスチナ人の難民キャンプを訪問し、パレスチナ人の訴えに耳を傾けました。私は週末にイスラエル人をガザ地区に連れて行きました。私の主な願いは、イスラエル人とパレスチナ人が互いを平等な人間として見ること、一体の存在として見ること、ありのままの姿を見ることでした。

しかし、2000年9月に第2次インティファーダが起こり、私はパレスチナの友人たちを正式な形では訪問することができなくなりました。それは私にとって大きな喪失でした。

 (アリエル・シャロン(当時リクード党党首、のちに首相)が、エルサレムの神殿の丘(かつてユダヤ教の神殿が建っていた丘)にあるイスラム教の聖地アルアクサモスクに強硬入場したことがきっかけで、パレスチナ人の反イスラエル闘争が起こった。)

私が自分の子供を流産で失うという個人的な喪失の後、私は地球上のすべての子供たちの母親になって、その喪失を埋め合わせてきました。ガザ地区や、ヨルダン川西岸地区のパレスチナ人の町や難民キャンプには、私のことをアラビア語でヤンマお母さん、シッタお祖母さんと呼ぶ子どもたちがたくさんいます。

この頃の私の主な活動は、人道的支援、人々への援助、イスラエルの病院に収容されているパレスチナ人負傷者の訪問、衣類や食糧や医薬品の援助などでした。パレスチナ人の置かれた状況を和らげるために可能なことは何でも、私の力が及ぶかぎりのことは何でもしました。

恐怖が人々を支配しているということに気づきましたので、最近の10年間は、「平和の文化」のための教育プログラムを構築しました。

 (1995年のユネスコ第28回総会で「平和の文化」が提唱され、その後、第52回国連総会では、2000年を「平和の文化国際年」とすることが決議された。)

私はイスラエルという中東の国でずっと生きてきましたので、私たちが恐怖を持っているということを心深く認め、そしてそれを解消することに私たちの全エネルギーを集中しなければならない、ということは私にとってきわめて明白なことです。その恐怖の解消は、互いに相手のことを知り、自分自身を内省し、私たちの心を開き、無条件の愛になることによって可能になるのですが、私たちは本来、その無条件の愛そのものであるのです。

この平和教育のプログラムは主として若い人々や先生たちのためのものです。それは、内なる平和と無条件の愛を再活性化するための様々な創造的な活動を含んでいます。

ただし、私は今ここにいながら当惑を感じてもいます。そして、私の地域、私の国の状況に関して、イスラエルに生まれ育った個人として感じている心の葛藤を注意深く表現するように努めています。

最近、私のまわりで起こっている出来事に関して、私の感情の中で戦いが起こっていることを頻繁に感じます。

 (「私のまわりで起こっている出来事」というのは、ユダヤ人入植者によるパレスチナ人へのテロ行為のことを指している。)

私は私の国を心から愛し、またイスラエル国民の一人であることに誇りを感じています。イスラエルに住んでいた古代イスラエル人の子孫であることに誇りを感じています。しかし、私の国は、旧約聖書に詳しく記されている最も神聖にして人道的な原理を失いつつあるように思われるのです。

ホロコーストにおける私たちの悲惨な歴史的経験は、私たちの文化の中に深く組み込まれているだろうと皆様は予想なさるかもしれません。それは、私たちが絶対に避けるために最善を尽くさなければならない事柄として組み込まれているはずなのです。それは人種差別、他者に対する批判、恐怖、そして違った考えを持っているかもしれない人々への恐れや疑惑などを絶対に避けるということです。私たちユダヤ人は、このようなネガティブな態度から生じるかもしれない恐ろしい事態を見てまいりましたし、経験してきたからです。

ところが不幸なことに、「二度とこういうことを繰り返してはならない」という動機から得られた主な教訓は、まさに深い恐怖のエネルギーであるように思われ、それがイスラエル国民と我々の指導者たちを駆り立てているのです。

恐怖はそれに従うべきよいエネルギーではありません。恐怖に駆られ、勇気を欠いた指導者たちは諸国民にとってよいリーダーではありません。恐怖は信頼と受容の反対物であり、憎悪と分断の原因です。

私たちは一つの人類という天上的な目的地に確実に至る究極の道の途上にあります。そして、私たちすべての人間の心の中に存在している「神的な火花」(Divine Spark)を絶対的に承認する道の途上にあります。しかし、そこに至るまでに、悲しいことに、現実のレベルでは、諸国家の指導者たち、スピリチュアル・宗教的指導者たちとその信者たちは、全能の神の名を悪用しながら、恐ろしいテロを広めているのです。

 (神的な火花とは、人間に内在する神性、仏性、本来の善なる心。)

このような態度は、次のような間違った観念に基づいています。それは、特定の規則や信仰箇条のセットを崇拝し、それに正確に従わない者は、処罰されて、人間社会から追放されなければならない、という考えです。そして、多くの場合、実際に文字通りに行なわれるのです。

私は、自分自身に対しても、私たちすべてに対しても、次のように想起させたいと思っています。このようなおかしな生き方は、人類が何かしらわからない神秘的な理由によって歩むことを選んだ、痛みに満ちた道にすぎない、ということです。そして、その道の目的地は、人類が母なる地球において無条件の一体的な愛に目覚めるということなのです。

いかなることが起こりましょうと、強い平和がすべての国々の中に、すべての社会の中に、そして平和を探求するすべての人々の中に存在するのだということを常に想起しなければなりません。

長年のあいだ、私は「平和の文化を生きる」という独自の教育プログラムを構築し、実践してきました。このプログラムは様々のユダヤ人の学校やイスラエルに住むアラブ人の学校で実践されています。

このプログラムの核心は、平和の種はすべての人の心に含まれていることを深く理解することです。そして、私たちの誰もが平和の種を花開かせることに関わっているのです。――まず私たち自身の中で、次に家庭で、友人や同僚との間で、国で、もっと広い地域で、そして、自然環境を大切にすることによって全世界で花咲かせることができるのです。これがこのプログラムを動機づけている考えです。

このプログラムは最終的には、学校の先生や青年リーダーの手助けを得ながら、若者たち自身で実践されます。プログラムは心の平和を反映させるための様々な種類の活動を提供します。たとえば、情報源の共有、様々な考え方を出し合うブレイン・ストーミング、共感の心を持って相手の話に耳を傾ける訓練、相互の尊敬、共同での計画立案、共同創造に向かって行動を起こすことなど、色々な要素を強調したアプローチがあります。

このプログラムは、心の平和への気づきを促進しようとします。若者たちと彼らの周囲の人びとに、心の平和の存在への気づきを援助します。そして、一人一人の人間が世界のあり方に責任を持っているのだということを理解させ、政治的状況や信仰に関係なく、私たちの世界をよりよくする力があるのだと認識させます。

平和はまず私の中で始まり、周囲すべてに反映され、そして最終的には世界の平和と環境との平和へと至らなければなりません。

私たちは最初に、先生たちやお世話係たちにこの基本的な考え方を理解してもらい、若者たちと協力するための様々なツール、道具を提供します。そのようにして、私たちは若者たちと共同活動を始めることができます。若者たちにプログラムの意義を説明し、プログラムを活性化するための共通のルールを説明します。それは、先生たちや教育者たちがいるところで、若者たち自身によって若者たちに対して行なわれるのです。

参加者たちの関心を引きつけるために、私たちは様々なテキストや活動を用います。

プログラムの重要な構成要素の一つは、「心の平和のスペース」をつくることです。これは学校の中の適切な場所で、校舎の中でもいいですし、校庭につくってもかまいません。この場所は生徒たち自身の手によってつくられ、一人か何人かの大人によって世話されます。

それは、心静かに自分を省みるための場所です。それは「聖なる場所」と呼ぶこともできます。その場所を構成する要素は、お世話係の大人によって提案されますが、最終的には生徒たち自身によって選ばれます。その構成要素は心を落ち着かせるものでなければなりません。

そこには文章を書いたり絵を描いたりできるコーナーがあることが望ましいです。生徒たちも何を置くかの決定に関わり、その場所の目的にふさわしい行動ルールの作成に関わるでしょう。

私はイスラエル・パレスチナで異なった信仰と文化の子どもたちと出あうという幸運に恵まれましたが、このプログラムのツールの一つとして、そして長年の平和教育ミッションの一つとして、広島の佐々木禎子さんと、白血病と闘う彼女の勇気に関する感動的な物語を、子どもたちと共有してきました。

 (佐々木 禎子(1943年~1955年)は2歳の時に被爆し、白血病を発病した。回復を願って千羽鶴を折り続けたが、12歳で逝去。)

私たちは一緒に千羽鶴を折り、それらを共有し、世界中の子どもたちがみな、戦争や紛争がない安全な生活ができますようにという、禎子さんの願いを広めてきました。

私はこれから広島の禎子さんの記念像と原爆資料館を訪れることができることをとてもうれしく思っています。私にとっては、子どもたちが最大の先生であり、希望とインスピレーションの無限の源であります。

 (広島平和公園には、禎子を記念した「原爆の子」の像がある。この像は、全国の子供たちの寄付によって建立された。)

人びとはしばしば疑問に思うかもしれません。そんなことをしても効果があるのかしら、と。私の答えは、それはたとえ大海に落ちた一滴の水であるかもしれないが、たしかに効果があった、という答えです。

この間、私はプログラムの過去の参加者たちに会っています。彼らはもう大人になっています。彼らは街で私に声をかけ、プログラムについての彼らの印象を話してくれます。

たとえば、今では徴兵義務を終えた青年が彼の体験を話してくれました。

彼は徴兵の一期間、毎日何千人ものパレスチナ人が通過する混雑する検問所に配属されていました。そこでは、パレスチナ人が通行許可をもらうのですが、許可はセキュリティ・チェックが終わったあとではじめて与えられます。彼らはイスラエル側で働いていくらかの収入を得て、家族のところに戻るために、その境界線を越えるのです。また、イスラエルの病院で緊急の治療が必要な人もそこを通ります。

通常、待っている人たちの長い行列ができます。一年の大半、イスラエルでは気候はとても暑いのです。警備のイスラエル兵はもちろん、ぴりぴりと警戒しています。パレスチナ人は疲れて、怒りをいだき、うんざりしています。それは当然、非常に爆発しやすく、すぐに燃え上がる雰囲気になります。

私の以前の生徒は、彼が当番の時、かなりおなかが大きい若い女性を見ました。彼女はいまにも気を失いそうでした。

彼はこう言いました。「その女性を見た時、私はあなたハギトさんがいった言葉をすぐに思い出しました。どんな人でも、その人をまず同じ人間としてみなさい、そして人間として振る舞いなさい、という言葉です」 彼は行列をとめ、その妊婦さんを手招きし、彼女に水を与え、彼女のチェックをし、彼女が先に進むことを許可しました。

これは、私がもらった数多くのフィードバックの一例にすぎません。平和のトレーニングはストレスに満ちた時に際立つのです。それは、それがなければならない時に表に現われるのです。

もちろん、それは大海の一滴にすぎません。しかし、海は一滴一滴の水からできあがっているのです。私はそういう一滴一滴を集め、私の宝にし、私の信念のフィードバックにしています。

イスラエル人にもパレスチナ人にも、激しい紛争をしつづける数多くの理由と過去の物語があります。しかし、それらすべてを超えて、両者が平和で実り豊かな生活を希求する主要な人道的理由もあります。平和に生きるということは、人間の基本的な欲求だからです。

私はある日本人の先生が語った言葉を大切にしています。それは、すべての苦しみは消えてゆき、やがて必ず良くなるのだ、という言葉です。

あらゆる苦しみにもかかわらず、私たちが生きている間に、平和な世界を見ることができるようにと私は願っています。

今度の月曜日(2015年9月14日)は、ユダヤ暦では新年元旦になります。新年は私たちユダヤ人が自分たちの心を省みる時です。そこでユダヤの伝統に従って、SHANNAH TOVA、新年おめでとう、と申し上げ、新年が祝福に満ちたものになるようにお祈りします。

 (ユダヤ暦の1年の最初の月であるティシュレ月の1日と2日が新年。その月の10日からヨム・キプール(贖罪日)という、ユダヤ人が自らの過去を反省する祭りが始まる。)

Yishre Shalom Aley Adamot(ヘブライ語で「世界が平和でありますように」)

A Salam Lil Alam Ajma(アラビア語で「世界が平和でありますように」)

May Peace prevail in Hiroshima!

Peace prevails on Earth!

Amen!

(中澤英雄・訳)

 

 

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